今月の少女 – BUTTERFLY | [X X] (2019) : ふたたび巡り合った世界【日本語訳】

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이달의 소녀 – BUTTERFLY | [X X] (2019)

다시 만난 세계

今月の少女  BUTTERFLY | [X X] (2019)

ふたたび巡り合った世界

by weiv 2019.03.04

 

純度が非常に高い。2019年2月19日にリリースしたリパッケージアルバム「XX」(マルチプルマルチプル)のタイトル曲"Butterfly"とそのミュージックビデオ(MV)と接した感想だ。 

 

静かだが張り詰めたバース(Verse)と満開のコーラスは、限界を越えようとする熱望と飛行による解放感を交互に伝え、K-POPで通常使われる水準より強いリバーブ効果は、飛び立つ蝶の前に広がる風景の華やかさを感じさせる。振り付けは激しくなるのと同時にすばやく変化し、シーケンスごとに始まりと終わりがはっきりしていて、一種の提案に近い。

振り付けをさらに見てみると、腕と足が大きく速く伸びていく姿、体全体を動ながら作る線、メンバーたちが正確な位置に移動しながら作り出す隊形が目を引く。また、衣装は手と顔の肌だけが露出している単色のブラウスとズボンで、振り付けを強調すると同時にメンバーたちが振り付けを正確に遂行するよう手助けする。手首のフリルは振り付けから「蝶の群舞」という印象が効果的に表れる。

面白いことに振り付けが公開されて以来、「男性ドルのダンスのようだ」という反応が多かった。上に挙げた"Butterfly"のダンスの属性は、これまでガールズグループのダンスにあまり適用されてこなかったり、少なくとも消費者がそのように受け入れてこなかったという意味だ。この属性は共通して舞台上の身体の機能的動きに集中させる。そのような属性を持つ振り付けの対蹠点には「重要な部位(プライベートゾーン)」で分けられた肉体を見せる振り付けが置かれているはずだ。もしかすると消費者は、多くのガールズグループの振り付けで前者より後者を見てきたのかもしれない。

"Butterfly"の振り付けには、いわゆる「男性のダンス」の本質と言える誇示的で威嚇的な面(俗に言う「ホラ吹き」)がない。むしろ、絶えず優雅で流麗な線を描くために、非常に節制された動きを許すだけだ。それでも「男性ドルのダンスのようだ」という反応が出るのは、この振り付けが身体の卓越した挙動を効果的かつ丁寧に表すのに成功したことを意味する。つまり、メンバーたちは男性を真似ていなくてもこの曲のステージにおいて肉体以上の何か、つまり人間として提示される。

 

MVの果敢な構成も、このような戦略を手助けしている。K-POPのMVは、多くの場合、ある曖昧な状況の中に置かれているメンバーたちの演技シーンや、MV公開後のステージを予想できるよう、振り付けや衣装などの視覚的要素を示すパフォーマンスカットを相次いで行う。しかし"Butterfly"のMVは、公開後「さぁ、メンバーバージョンを見せてください」という不満の声が片隅から聞こえてくるほど、MVの中のメンバーたちの姿がパフォーマンスカットに限定されていた。残りの席を埋めるのは、中国・香港/深セン、フランス・パリ、アメリカ・ロサンゼルスなど世界各地で撮影した女性たちの姿だ。

実は、メンバーたちの演技の場面は、すでに今年1月1日から50日間にわたって公開されたティーザーに含まれている。このように果敢にもメンバーだけが置かれた閉鎖的な「世界観」をMVの前に出してしまった結果、MVではメンバーのパフォーマンスが集中的に浮上し、K-POPの文法から脱して拡張された世界が映し出された。その中の女性たちはどこかを走ったり、(ゴルフクラブのように)松葉杖を振り回すなど、これまで「今月の少女」が出したMVの中の場面を連想させる行動をする。これを通じて観客は、もしかすると次のような誘いを受け入れることができるだろう。: 私たちは同じ運命を持って生まれた – もっと高く飛んでいけという。

MVのフォーカスの中に男性が登場しないということは、この誘いに説得力を加える。多くの経験を通じて、消費者たちは女性と男性が画面に一緒に登場すれば2人はロマンスに陥るということを、自分が知っているという事実も知らないほどよく知っている。"Butterfly"のMVは通行人を除いた男性を完全に排除し、その中の女性たちが異性愛叙事の構成要素に限定される結果を防ぎ、彼女たちがいるところ、そして彼女たちが向かったところだけを明らかにする。これはもちろん「このMVはそんなに多様な女性を提示するのに、なぜ男性がいないのか」という、また別の不満の声を生んだ。

それもそのはず、"Butterfly"は歌詞にさえ、片思い、誘惑、別れなどの古典的なテーマを扱っておらず、ただ新しく生まれ変わろうとする、そしてもっと高い所に進もうという熱望だけを盛り込んでいるからだ。このような熱望は極めて人間固有のものだが、非常に驚くことにそれがK-POPガールズグループのタイトル曲に含まれたことはそれほど多くなく、ただ少数の聴き手を前にする「収録曲」を通じてのみ、密かな系統を繋いでいくことができた。

 

"Butterfly"が提示する歌詞とイメージには、メンバーたちを男性を真似るものとして提示せず、それと同時に男性の視線に囚われないようにするための仕掛けが、一貫して、そしてぎっしりと置かれている。このような断固とした制作が必要な理由は、ガールズグループのメンバーが単なる人間として提示されるために必要な脱出速度を著しく高めるためだ。映画、ドラマ、演劇、ミュージカルなどのショービジネスの中の女性俳優は、運が良ければ、消費者が満足できる魅力的な肉体、あるいは彼らが劇外で解消できない攻撃性を受け止めるゴミ箱に留まらず、劇の敍事を通じて自分の意志と誇りを持つ人間を代弁することができる。ただし、それさえも男性俳優に与えられる機会に比べればわずかなだけだ。しかし、女性歌手にはそのささいな機会すらなかなか与えられない。少なくとも韓国では、指折りの女性ソロ歌手だけが、自分自身が主人公だという叙事(「連続ヒットの神話」ないし「アーティストの歩み」など)を、市場で与えられてから、自らを人間として、世界に語るべきことのある存在として掲げる機会を得る。ボーイズグループはただ顔を出しただけでも誰かを代弁することができ、肉体的魅力は彼らをむしろ高い次元の存在に引き上げ、そのような魅力が見えないなら消費者によって発明される。片や、ガールズグループの肉体的魅力はポルノになり、肉体的魅力を披露できなかったガールズグループは淘汰される。いくつかのガールズグループがこの秩序に挑戦したが、次の行動を約束されたグループは挑戦したグループより少なく、彼女たちさえ歌詞やパフォーマンスなどを通じた(まさに「ヘテロ・ベイティング」という)一抹の妥協が必要だった。ガールズグループの消費者の中で、人間の歌を聴こうとした人々はいつだっていたが、産業の大きな流れに影響を及ぼすには当然その数が少なかった。

卓越にも、"Butterfly"が披露する歌詞とイメージは、これらの制約を明示的に否定しないと同時に、塩と砂糖を行き来しながら絶えず新しい刺激を求める市場の水車に(皮肉にも「ガールクラッシュ」と呼ばれる)「私たちは彼らとは違う」という宣言で自らを押し込めない。ただ、そのような制約が全くないかのように、ただ、より遠く、一緒に飛んでいこうとする熱望を、高い密度で示しているだけだ。まるで重力がなかったように、蝶たちの本質は高さと速度だけだというように。

 

その後に残るのは、ただひたすら広がる地平線の前から聞こえてくる嘆声だけだ。サビで繰り返し裏声となる「Fly like a butterfly」は、敢えてボーイズグループの油気のある歌唱を真似する必要がないかのように、あるいは暗い居酒屋で口ずさむメロディーを提示する理由がないように、か細いようで強烈な印象を残す。通常のタイトル曲よりもう少し長い時間(3分57秒)を要するほど、何度も嘆声を繰り返す曲の後半部では、むしろ一番早い速度、一番高い位置に到達した時に聞こえてくる悲鳴や歓声のように聞こえる。

その卓越さは性別の任意の区分を滑稽にする。製作者と実演者の区分、すなわち分業を通じて高度化され、実演者と消費者との間の境界を曇らせるメカニズム、つまり同一視することによって原動力を得る産業の産物について話しておきながら、「主体性」といった言葉を動員し、これを緩慢に賞讃したとき(個人的にはこれを「主体思想」と呼びたい。) に伴う、古くて消耗的で支離滅裂なアイドリングを敢えて起こすつもりはない。しかし、"Butterfly"が提示する情緒は、高い自尊心と誇りを持っており、そのための用い方が精巧であると十分に言えるだろう。 断固たる制作と強い没入を見せる実演を通じて、ガールズグループも世界の中の自分、そして自分の前の世界に対して歌うことができるという刹那の解放感を、一部の消費者にプレゼントする。このような瞬間は、これまで「今月の少女」がどのような行動を踏んできて、今後どのような行動を踏むかと関係なく、いくつかの記憶に長く粘り強く残る。私たちはすでに似たような経験をしたことがあるからだ。どういうわけか、あまりにも長く生きてしまった一人として、私は今から12年前に発表されたある歌を思い浮かべた。そして、その歌から軽薄さを超える部分だけを取り払おうとした多くの試みを思い出す。"Butterfly"は果敢に、軽くその線を超越している。